第四回 新人とはお荷物である



さて、会社にとって新人というのは組織の硬直化を救う存在であり次代を担うという意味ではゴーイングコンサーンの体現とも言うべき大切な役割を持っています。

しかし一方で「新入社員には、儀礼的な対応以外は願い下げというのが、当たり前の反応だということを、まず認識しておくこと。/みんな、君の育成に責任をもっている課長なり何なりの手前、君の面倒を見ているふりをしているだけで、内心では面倒くさいなあ、新人なんて押しつけられていい迷惑だぜ、と思っていることを忘れてはならない。(福田和也『岐路に立つ君へ』小学館文庫2002)」という見方もやはり厳然としてあります。

前者を理想、後者を現実と見るのであればぼくたちはまず後者の立場から出発しなければならないと思います。

黒板に向かって一斉授業方式の新人研修などいくら受けたところで仕事ができるようにはなりません。もちろん原理原則やルール、概念といったものは必要です。必要ですが、それは新人に限った話ではないし、仕事をする上では個人の理解よりもスピードや上司の意向が優先されることが往々にしてあります(さらに悪いことに得てして管理者というのは一斉授業法式を行うことによって「教育」がなされたと勘違いします)。

その間隙にあるのが実務の引き継ぎです。

新人にとって仕事とはイコール実務と置き換えてもいいくらいのものです。それは想像以上に地味でかつ複雑なものです。研修ではきっと会社の歴史や今に伝わる創業者のありがたいお言葉、「偉い人」たちの訓辞に始まり現在の財務状況、組織、ビジョン──そんなものを習ったことでしょう。

一転して配属されて与えられた仕事といえば電話をとることと間違えずに伝票を書くこと(これは比喩です、職場によって異なるでしょう)。その落差にまずは愕然としてください。会社を動かしているのは理想だ、という理想論など吹っ飛んでしまうくらい地味な地味な実務が会社を動かしていることにあなたは気がつくことでしょう。

その上で、話を元に戻しましょう。新人というのはやっかいな存在だというところへ。

実務を教える先輩社員は知っているのです、理想に頭をふくらませた意気揚々たる新入社員に向かって些末で形式主義的で、もしかしたら他の会社に行ったら全然役に立たないのではないかと思えるような実務を教えなければならない我が身のむなしさを。「それが仕事というものだ」「こういう些細なことが尊いんだ」そんな言葉をあなたはかけられもするかもしれない。

ここでぼくがふたたび同じ話──橋を架けるという比喩を繰り返すことを予感したのであれば、勘のいい読者です。ぼくははじめに現実から出発しなければならないと書きました。それは理想を捨てることと同義ではありません。ぼくたちは些細な実務を起点としてビジョンへと向かっていかなければなりません。

それは自らが作り上げた数字が財務諸表のどこに生きているかを考えたり(会社のビジョン)、仕事の依頼をするにしてもメールでするのか電話でするのかメールを送ってから電話をするのか会議を開くのか、そういった取捨選択によって仕事の方法論を考えてみたり(自分のビジョン)と、そういうことのヒントはたくさんあると思います。

大きな会社であればあるほど、相対的に社員一人の仕事というのは細分化され断片的であるかもしれません。

だからこそ逆にモチベーションという面においても自分の仕事が全体の中のどこに位置しているのかという思考を忘れないでください。部分と全体とを自由に往来できる能力こそが、あらゆる意味において頭の良さだとぼくは考えています。

次回はもう少し具体論に移ります。







荘司 和良
1982年生まれ。東京都出身。
2005年、東京大学文学部卒業。
現在会社員。
「就職活動は人生の縮図。人と人とが出会い、別れる。それが濃密な速度で繰り返される。そんな日々はめったにあるものではないように思います。だからそう、あなたがもしも自分の人生に飽き足り無さを感じているのだったら、就職活動はものすごいチャンスのはず」