第三回 内定ブルーは終わらない |
五月です。この単調な繰り返しが永遠に続くと思われていた就職活動も、会社側から見れば採用活動という数ある業務の中の一つでしかありません。(ナイーブな異論はあるでしょうが)効率と利潤獲得を至上命題とする企業にあってはいつまでも学生の「自分探し」につきあっているわけにはいきません。ゴールデンウィーク前後にあれよあれよという間に内々定をもらってあっけにとられている学生さんも少なくないのではないでしょうか。 今回は前半三回の締めとして内定ブルーについて考えてみたいと思います。内定ブルーとは就職活動中になかなか内定が出ずに陥る憂鬱と、内定が出た後に「本当にこれでいいのか」と自分の決断が揺らぐ憂鬱との二種類があるそうなのですが、ここでは後者についての話です。 考えてみれば恐ろしいものです。たとえば会社生活の定年を六十五歳とすればおよそ四十年間の生活をたかだか二十年かそこら生きただけの人間が決めなければならないのですから。 けれども、それよりもむしろぼくが陥ったのはどこの会社で働くかということよりも会社で働くということを選択したことに対してのブルーでした。 結論から言えば、そのブルーは消えることないまま今でもこの胸に巣くっています。そしてもしかしたら、「この会社でよかったのだろうか」という疑念もまた当のその会社に居続けながらも抱き続けている人が社会の多くを占めているのではないでしょうか。 内定ブルーとは、内定をもらってから一時的に陥るブルーではなくてあなたが社会人への一歩を踏み出したことによって初めて味わうことのできるサラリーマンの悲哀の一端。そう考えることはできないでしょうか。つまりはそれは、入社式までに回答を出さなければならない問題ではなく一生かかって自らの人生で答えていくべき問題なのです。 大学四年になってから、また会社に入って今に至るまでぼくも悩み続けています。マルクスやウェーバーを読んでみたり、転職した友達の話を聞いてみたり、「労働観」の歴史をひもといてみたり。一方で会社というシステムは「悩む」という時間の余力を収奪していくには効率のよい仕掛けを随所に持っています。多忙と責任とによって考える能力は業務に割かれ、給金と賞与によって安易な自己肯定を与えられれば、誰だって無条件降伏してしまうでしょう。それをあきらめと呼ぶ人もいます。問題を棚上げすることによって内定ブルーは解消されます。そして時々同期が転職すると、古傷をえぐられたような気持ちになる。どつぼにはまる。 それでいいのだと思います。それが働くということの立派な一部分であると思うのです。だからもしもあなたが今内定ブルーに陥っているのだとしたら、それは既に仕事をするという営為に参加しているということなのです。 第一回と第二回では「橋を架ける」という比喩を使いました。前に言ったことと矛盾するかもしれませんが、「なぜこの仕事を選んだのか」という問いに対する答えは結果論であってもいいような気がします。就職活動と採用活動。この二つは同じ出来事を立場によって言い換えているにすぎません。そこには学生の意志と企業の意志とがせめぎ合います。なんだかよくわからないけどそこそこ入りたいと思っていた会社から内々定が出てしまったとしたら、それは会社の意志が勝ったということです。それでもあなたは来年の春からそこで働かなければならない。なぜ? ぼくはいま経理をやっています。これは自分の意志ではありません。経理をやりたくてその会社に入ったわけではありません。それは会社の意志です。けれどもこの場所から学生の頃の自分に向かって言葉を”かける”としたら「おかげで知らない世界を見ることができている。読書の幅もだいぶ広がった。文学もいいけど会計もなかなか面白い」と、言うことができるでしょう。 もちろんそれがすべてを解決する魔法の言葉であるはずがありません。終わらない内定ブルーの渦中にある同志諸君、あきらめずにじたばたしてみようではありませんか! |
荘司 和良
1982年生まれ。東京都出身。
2005年、東京大学文学部卒業。
現在会社員。
「就職活動は人生の縮図。人と人とが出会い、別れる。それが濃密な速度で繰り返される。そんな日々はめったにあるものではないように思います。だからそう、あなたがもしも自分の人生に飽き足り無さを感じているのだったら、就職活動はものすごいチャンスのはず」