第二回 志望動機が死亡動機?(下) |
今回は少しぼく自身の話をさせてください。 今から考えると大変恥ずかしい話ではあるのですが、ぼくの就職活動に対する姿勢というのは基本的に「仕事なんていうのはできるんだから、好きな小説を書ける環境を与えてくれ」というものでした。そのことをかなり真剣に訴えていました。ほとんどの会社は「文学部の病」として相手にしてくれませんでした。ところが全ての会社がそうではなかったのです。 潜在的な志望者が少ないマニアックな企業に行けば行くほど、ぼくの話を〈面接者─学生〉という関係性を越えて一人の人間同士として聞いてくださる大人の方は存在しました。そのことは本当に救いでした。四月も入れば大抵の名のある企業からは落選通知を突きつけられています。行き着くべくしてぼくは彼らのところへたどり着いたと言えるのかもしれません。 そこではいろいろなことを話し合いました。 「サラリーマン志望の仮面をかぶって就職活動を続けるかドロップアウトするかだ。しかし今の君には演技力がない」 「残念ながら会社の立場として君を採用するわけにはいかない。けれどぼくは君が今後どのような人生を送っていくのか個人的に非常に興味がある」 「三島由紀夫は大蔵省に勤めながら小説を書いた時期があると君は言うが、あんなの九ヶ月かそこらだろ。働いたことにはならないよ」 大人たちは無力だったぼくにいろいろな言葉をかけてくれました。ぼくはそれらをいちいち忘れることができないでいます。会社に入って仕事をする立場になった今もぼくの背中には彼らの言葉が張り付いています。 正直であり続けることを旨としていました。そうでなければ自分が本当の意味で働き続けることのできる場所を見いだせないと考えていました。それは今でも変わっていません。あるいは、ドロップアウトすることを前提に会社選びをするほどの狡猾さ・戦略性を持つほどの余裕が無かったと言うこともできます。それについては価値判断を控えておきます。どちらを選ぶかはあなた次第なのだと思うからです。 結局、ぼくはそういう不器用で馬鹿正直な部分を認めてくれるところから「一緒に働こう」と手をさしのべられることになりました。そのことを幸運と呼ぶ人もいます。 話を一般論に戻しましょう。 志望動機としてぼくたちは学生時代の少ない経験からひねり出すことをしなければなりません。しかしそれは実際過酷な作業です。 たとえば陸上競技を四年間一生懸命続けていたことをどうやって志望動機に織り込みますか。そこで試練に耐える忍耐力を培いました、とでも言いますか。しかし陸上に対して真摯に取り組めば取り組むほどその言葉のうすら寒さを感じることでしょう。なぜならぼくたちは就職をするために大学生活を送っていたわけではないのですから。陸上は陸上のためにやってきたのです。それがぼくの場合文学だった、それだけのことです。 そこであなたは二つの道を選ぶことになります。ぼくのようにその葛藤をそのままに面接官に対してぶつけて撃沈を繰り返すのか、あるいはとりあえず陸上に対する熱意はかっこに入れておいて上手に自己アピールをし続けるのか(それはひとつの能力なのだと思います)。繰り返しになりますがどちらが正解というわけではありません。なぜなら採用側がどちらの立場を評価するのかは会社によって異なるからです。 断絶を越える力。その橋を此岸から架けるのか彼岸から架けるのか。そういうことなのだと思います。老人の繰り言のようで恐縮ではあるのですが、忘れてはならないのはせっかく架け上がった橋も通過点でしかないということ。そういう潔さが、美しいのだと思います。 |
荘司 和良
1982年生まれ。東京都出身。
2005年、東京大学文学部卒業。
現在会社員。
「就職活動は人生の縮図。人と人とが出会い、別れる。それが濃密な速度で繰り返される。そんな日々はめったにあるものではないように思います。だからそう、あなたがもしも自分の人生に飽き足り無さを感じているのだったら、就職活動はものすごいチャンスのはず」