第一回 志望動機が死亡動機?(上)
こんにちは、初めまして。今月から月一度のペースで全六回のコラムを担当することになりました。
簡単に自己紹介をしておきます。現在茨城県下でメーカーの経理をやっている、この春で入社三年目の24歳。まだまだ学生気分が抜けきらない半人前ですが、半人前の今だからこそ書けること・書きたいことを開陳していきたいと思っています。
今回はさっそく次回とに分けて「志望動機」についてしつこく考えていきたいと思います。志望動機について考えることで、学生にとって就職活動が何であるのかという正体を暴いていく算段でいます。
冒頭にも紹介したとおり、今ぼくはメーカーの経理として働いています。金を扱う部署に配属される人間がどんな大学生活を送っていたか、あなたはどんな想像をしますか?
学部は商学部とか経済学部、緻密な多変量解析を得意とし、大学一年の秋にはたしなみ程度に簿記一級を取得……なんて、まさかそんな!
ぼくは文学部で国文学を専攻していました。とにかく小説ばかり読んでいて、学部の先輩らと喫茶店で文芸批評ごっこをしたり、手作りの雑誌に下手くそな小説を書いたりするのが好きでした。
それではもう一つ質問。そういう文学好きの大学生はどんなところに就職するものだと思いますか?
出版社に新聞社。まずそれが浮かぶでしょう。他には? 国語の先生、作家、フリーライター、学芸員、司書……この辺りが定石でしょうか。実際ぼくも就職サイトによくある適職診断で教師や宗教家の回答を得たことがあります(でもそれって、普通に就職は無理だヨあんた! って言われているようなもんだよな……)。
誤解を恐れず言えば、就職活動を始める前からなりたかった職業に就いたわけではありません。知識、という意味では大学で学んだことを活かせる職業に就けたとは思っていません(あなたはどうですか?)。
ここに、ある断絶が存在するのです。
大げさに言うのではありません。
「将来はサッカー選手/お花屋さんになりたい」という世界から抜け出し切れていない職業観から夢想される将来設計。たまたまであれ就いてしまった職業がそれを志望すると想定してくる学生像。その二つが相互排除しあう、その危険性。
この断絶を自分なりに納得のいく論理(論理でなくてもいい、感覚的なものでもいい)でつなげてやること、それがまさに学生から社会人への橋渡しになると考えています。
就職活動という視点から今のことを捉え直すとそれは「自分がどの会社を受けるのか」という問いに収斂されます。そしてもう一歩進んで考えると「その会社の面接試験会場で面接官に向かってどのような志望動機を述べるのか」という問いになります。
実はここで既に社会人へと渡される橋の、橋脚のその礎石となるべきをひねり出さなければならない立場に学生は立たされるのです。
なぜぼくがこのことにこだわるのかと言えば、入り口を曖昧にしてしまうといざ仕事で本当につらい場面に立たされた時にそれでも辞めない理由を持っていることがなによりも精神的な支えになるからです。
大学三年の冬、ぼくはこたつの上に置かれた分厚い会社四季報を前にして途方に暮れていました。世に会社と名の付くものは数多あります。けれども自分が志望する必然性のある会社が少なすぎたのです。その予感は春先に企業の採用活動が活発化するにつれていよいよ現実のものとなり、SPIなど筆記試験にはパスすれども必ず一次面接で落とされるというパターンに陥る羽目になったのです。
(次回に続く)
荘司 和良
1982年生まれ。東京都出身。
2005年、東京大学文学部卒業。
現在会社員。
「就職活動は人生の縮図。人と人とが出会い、別れる。それが濃密な速度で繰り返される。そんな日々はめったにあるものではないように思います。だからそう、あなたがもしも自分の人生に飽き足り無さを感じているのだったら、就職活動はものすごいチャンスのはず」