2007年3月14日
余は如何にして社会人になりし乎
はじめに
いつもお世話になっているS氏から「自分の勉強テーマについて一筆書いて欲しい」と頼まれた。S氏の意図は、①自分の勉強している内容に対して勉強するインセンティブを上げるため、②自分の研究分野の仲間と繋がる目的のため、③自分をアピールすることによってチャンスを広げるため、の3点とのこと。二つ返事で引き受けたものの、この3点を満たす内容がそうそうすぐに書けるものではない。締め切りや様式などを細かに説明するS氏の電話を適当に聞き流し、ひとまず大学院で書いた論文の要約的なものを作ってみた。
しかし書き上げたものを読み返してみると、その中身は図表と専門用語に終始する内容となった。想定される読者がCLEVER(経営研究会)のメンバーであることを考えると、あまりに無味乾燥かつ、著者の自己満足的な内容である。これではきっと採用してはもらえまい。そこで今度は勉強テーマの詳細を記述することは避け、テーマの変遷という形でまとめ上げることにした。二度目の原稿は次のような内容である。
1.不平等はなくなるのか
現在、世界の人口は約60億強。そのうちの12億人が一日1ドル以下で生活し、16億人が一日2ドル以下で生活している。また20世紀末の段階で、約1,000万人に及ぶ5歳未満の乳幼児が、防ぐことが可能であったはずの病気により死亡。50万人を超える女性が、妊娠中または、出産によって死亡。およそ1億1,300万人の児童が小学校に通っていない、という状況である。およそ人類は、理性に裏付けられた民主主義、市場経済、科学技術の発展によって幾多の不条理を克服してきたかのように錯覚しがちであるが、いまだ世界の人口の約半分弱が、経済的な意味ではきわめて貧しい生活を強いられているのである。
筆者は高校時代、環境問題に関心を抱いていたが、この問題を解決しようと思えば、発展途上国の経済開発に制約を強いることとなる。京都議定書で知られる「気候変動枠組み条約」をめぐる、南北間の対立をみればそのことは明らかであろう。そこで間接的ではあるが、南北問題を勉強することでこの問題解決への手がかりを掴みたいと思い、大学では国際協力や発展途上国の経済発展について学ぶゼミの門を叩いた。
2.タンザニアへの逃避行
出版社に新聞社。まずそれが浮かぶでしょう。他には? 国語の先生、作家、フリーライター、学芸員、司書……この辺りが定石でしょうか。実際ぼくも就職サイトによくある適職診断で教師や宗教家の回答を得たことがあります(でもそれって、普通に就職は無理だヨあんた! って言われているようなもんだよな……)。
誤解を恐れず言えば、就職活動を始める前からなりたかった職業に就いたわけではありません。知識、という意味では大学で学んだことを活かせる職業に就けたとは思っていません(あなたはどうですか?)。
そのゼミを通じて、大学3年次にタンザニアへ植林ボランティアをしに行く機会を得た。別にこれといった目的意識があったわけではない。大学3年次といえば、一般的な学生は就職活動や公務員試験準備などを本格的に始める時期であるが、ご多分に漏れず社会に出て何をしたいかが分からなかった筆者は、大義名分を得て半ば現実逃避のような形で日本を脱出したのである。
現地では冒頭で挙げた貧困の様相を肌で感じ取ることが出来た。例えばホームステイ先では子どもが無邪気に将来の夢と称して画用紙に絵を描くが、それが本人の実力ではなく、社会環境的に実現しがたいものばかりであったのである。
当時の自分には、このような可能性や選択肢の制約、いわゆるcapabilityの欠如を目の当たりにしたことは、進路で悩んでいた自分の甘さや置かれている環境のありがたみを認識するのに十分すぎる体験であった。そこで、このような貧困を打破することを当面のやりたいこと、勉強のテーマとして据える決意をし、慌てて受験勉強を始め半年後には大学院を受験した。何とか合格をし、経済発展についての研究を始めることとなったのである。
3.インドネシアで足止め
やっと大学院での論文漬けの生活にも慣れてきた頃、大学院のゼミ活動の一環として、インドネシアでフィールドワークを行う機会を得た。テーマを端的にいえば、①援助を通じて水道や道路などの社会資本が導入される際に、被開発地域においてその社会的価値体系が開発プロジェクトに対してどのような影響を持ち得るのか、②開発計画の円滑な実施のためにどのような組織体系を当該社会に育成すべきか、と言ったところである。
フィールドでは、日本の円借款による水道プロジェクトが実施された村の数ヵ所を回った。調査結果としては、①については同じ地域でも村落によってフィードバックはまちまちであり、②については明確な回答を出すことは出来なかった。例えばある村では、水汲みに費やしていた数時間が空くことで、その時間を自給自足ではない貨幣獲得手段としての農作業に従事していたが、その空く時間を雑談に費やしている村もあった。また水道のメンテナンスについても、コモンズとしてのそれを受益者負担で管理するシステムを見事に作り上げている村もあれば、施設のメンテナンスを放棄し、元の生活に逆戻りしている村もあった。
この問題解決のスタートには、まずこのようなフィードバックの差異がなぜ生じたのか、とりわけ失敗の原因を明確化し、改善策を探ることから始めるべきであろう。しかし、我々の尺度でいう「成功」事例の村に関しては、住民は追加的な経済活動や管理のために、新たな負担を強いられていたのも事実である。一方、失敗とされる地域を観察すれば、例えば空いた時間の雑談は端から見ていても楽しそうであるし、水道が壊れて元の生活に戻ったとしても、それはそれで彼らは何とかやっていけるのである。どちらが住民にとって望ましいかについては意見が分かれるところであろう。経済的に豊かになるために、彼らの行動様式を規定する地域の文化規範が変質してしまう。それをどのように評価すべきか大きな価値判断の問題が、この両者の些細な違いが背後に横たわっているからである。
理由の詳細は割愛するが、筆者自身は大きな後ろめたさを感じつつも、やはり開発を推し進める立場をとる。ただ、この問題設定を自分の研究テーマとして続けることが、将来的にある種のプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神を広める宣教師的活動に繋がり得る事には違いなく、そのことに嫌気がさしたか、あるいは考えるのが面倒になったのかは定かではないが、結果的にフィールドワークを通じて、貧困削減の末端であるコミュニティーレベルでの社会開発をテーマにした研究を続ける意欲を失うこととなった。
4.エネルギー問題との出会い
そうして研究にも集中できていなかった折に、ジャマイカで発電所を建設するためのプロジェクトファイナンスの事例を、ケーススタディーとしてゼミで取り扱う機会を得た。これは指導教官が世界銀行勤務時代に取り組んだプロジェクトである。ジャマイカの対外債務残高を増やさずにこの発電所を建設するため、電力市場の自由化を行い、全て民間から資金を調達させるという、画期的なパッケージであった。開発援助で用いるストラクチャードファイナンスの亜種としてこれを扱ったのだが、この事例の理解には、世界のエネルギー事情についてある程度の知見を有する必要があった。その過程でエネルギー問題そのものに大きな知的興奮を覚えたのが、エネルギー問題との出会いである。
多くの発展途上国が国家予算の欠乏に苦しむ中、このような民間資金による社会資本の供給は、結果的に裾野の広い教育や社会保障、農村開発など、貧困削減に関係する国家の予算制約を間接的に緩和させることに繋がる。繋がらなければプロジェクトとしては失敗であり、そこが検討課題となる。一体、望ましい経済発展に貢献しうるエネルギー供給のあり方とは、どのようなものなのであろうか。また、電気事業の民活・民営化については日本よりもチリやマレーシアなどの方が先に進んでおり、当時話題となっていたカリフォルニア電力危機からの教訓なども含めて、自分の国である日本の時事問題としても切実なテーマであった。そして何より、二酸化炭素排出の問題とも大いに関係する発展途上国のエネルギー問題は、環境問題から南北問題へと入っていった筆者にとっては、絶好の研究テーマであったのである。
5.社会科学的見地による原子力発電の研究へ
エネルギー供給に関する検討課題として、化石燃料の使用に伴う二酸化炭素排出と、資源枯渇や供給構造の問題が馴染み深い。とりわけ東、東南アジア地域では今後大幅な需要の伸びが見込まれている。現地のニュースを追いかけていれば、BOTなど民間資金の活用や国境を越えた電力取引の枠組み構築など、供給不足に対する国家や電気事業者の熱心な対応が伝わってくる。しかし、いずれにせよエネルギー供給に伴う化石燃料の使用増加の問題は後回しとなっており、今後10年間で二酸化炭素排出量が増えることは間違いないのが現状である。
このような問題を一気に解決する可能性を秘めているのが、原子力発電の活用であると筆者は考えている。原子力発電は資源の有無にさほど左右されず、技術さえあればどこの国でも安定的かつ大量の電力供給が可能である。また現在のところ日本では1kwhあたりの発電原価が火力などと比べて最も安価であり、二酸化炭素排出量も風力発電より少ない。
もっとも放射性廃棄物の扱いや臨界事故など、原子力発電にも固有のリスクが存在する。しかしこれらを理由に原子力発電を切り捨てるのではなく、このような問題の技術的・社会的な克服に、文系理系を問わず我々はその英知をもっと傾けるべきではなかろうか。原子力発電というと理工系の人間が従事する分野というイメージがあるが、電力自由化における位置づけをめぐる経済政策や規制のデザイン、核拡散や国家安全保障、テロ対策などの国際政治的問題、パブリック・アクセプタンスなどの社会学的問題など、文系の専門家による知見が必要となる問題も数多い。今求められているのは、原子力発電の是非をめぐる二分法の解ではなく、これらの問題を如何に打破していくかの最適解を求める取り組みなのである。
6.今後の展望
以上のような度重なるテーマの変遷を経て、結果的に筆者は原子力問題を専門とする外資系コンサルティングファームに研究員として就職することとなった。何度も研究テーマが変わってしまい、そのたびに辛い思いをしたのだが、結局は最初の問題設定である環境問題というテーマに戻って来られたことは不幸中の幸いである。何を勉強してよいか分からない学生などに、ちょっとした励みとなれば幸いである。要は自分で決めてしまえばよいのである。最近では(仕事とは関係なしに)、東・東南アジア地域における、原子力の平和利用の可能性を追いかけている。今後、自分がどうなっていくのかは全く予測がつかないのだが、まずは仕事を通じて国内外のエネルギー、原子力、環境問題の健全な解決に、少しでも貢献していけたらと思っている次第である。
執筆を終えて
確かここまで書いて、一旦筆を置いた。その時はなかなか巧く出来たと思ったのだが、時間を置いて読んでみると甚だ恥ずかしい内容に思えてきた。全てのきっかけが「ゼミで機会を得た」での一点張りである。あまりに偶然に左右され過ぎではないか。困難や葛藤をものともせず、いや、それらを抱え込みながらもずっと一つのテーマを地道に追いかけている他の学生が見たら、きっと頭にくるだろう。
しかしそれは事実なのだから、そんなことはこの際どうでもいい。もっと困ったことに、最初の原稿にもまして、甚だ自己陶酔的な内容に終始しているではないか。やはり専門論文の体裁で書くべきだったのではないだろうか。「これ誰が読むの?」という符丁だらけの内容でも、全然勉強していないと思われるよりは(事実そうかもしれないが)、遥かにマシである。こんなものを世に出すわけにはいかない。
こうして二度目の原稿は、筆者のパソコンのごみ箱入りとなり、最初に書いた方をS氏にメールで提出した。そしてその数後日、S氏から電話がかかってきた。
「もしもし、海老原さんですか?どーもCLEVER(経営研究会)のSです。コラム、本当にありがとうございました。素晴らしい内容で・・・。」
きっと受信の報告と謝礼の話で掛けてきたのであろう。しかし、このような稚拙なテキストで謝礼なんぞを受け取るわけにはいかない。さあ、ちゃんと断らなければ・・・。
「ところで海老原さん・・・」
とうとう例の話題がきたぞ。一体いくらなのかな、図書券かな?何か買いたい本はあったかな、などと雑念が頭をよぎるが、もう一切受け取らないと決めたことである。
「ちょっと込み入った話で恐縮ですが・・・」
「例の話ですよね、ええ。その件ですがSさん・・・」
思わず息を呑んだ。
「ああ、海老原さんはもうご存知でしたか。今度、うちで今度企画をするんですよ~。一人でこの件を全部扱うのはきついので・・・また、手伝ってくれませんかね。」
推奨文献
筆者が勉強してきた研究テーマに興味を持たれた方のために、新規参入者向けの文献を紹介しておきます。
発展途上国の貧困について
William Easterly (2001), “THE ELUSIVE QUEST FOR GROWTH: Economists’ Adventures and Misadventures in the Tropics”, MIT Press.
プロジェクト・ファイナンスについて
Frank J. Fabozzi (1998), “Handbook of Structured Financial Products”, John Wiley & Sons Inc.
環境、エネルギー問題の総論について
James A. Fay, D. Golomb (2002), “Energy and the Environment”, Oxford University Press.
海老原 弘行
早稲田大学大学院アジア太平洋研究科
国際関係学専攻修士課程終了